井伊直弼を訪ねて掃部山公園へ
6月2日は横浜の開港記念日。毎年6月初旬には市内の各地で開港記念の催しが開かれています。
横浜の開港の歴史の中で、思い出すのは井伊直弼(いいなおすけ)という人物。1853年にペリーが来航し、翌年に日米和親条約が締結され、1958年の日米修好通商条約により横浜は開港の場となりました。
その日米修好通商条約を朝廷の勅許無しに独断でアメリカと調印した人物が当時大老だった井伊直弼です。その後反対派であった水戸藩浪士らにより桜田門付近で暗殺されてしまう(桜田門外の変)のですが、日本の将来を見据え、長い鎖国の時代を破ってわが国が世界への道を開く重要な役割を担った人物だと思います。
その井伊直弼の像が横浜の掃部山(かもんやま)公園にあります。
紅葉坂を登り、青少年センターの手前の道を右に入っていったところに緑豊かな掃部山公園はあります。石段を登ると、春には満開の桜が楽しめ、花見をする人で賑わう広場があり、その先のさらに高いところに、井伊直弼の像は港を見下ろすかたちで建っています。
ちょっと恐そうな顔つきですが、禅や茶道に親しみ、絵がとても上手かったという話を聞くと、気持ちの深い、心優しい人だったのではないでしょうか。
辺りを散歩していると、銅像の裏手に横浜能楽堂が見えました。平成8年に建てられたものです。この銅像の裏辺りは、以前は松の木などたくさんの木が生い茂っていたのですが、能楽堂の敷地をだいぶ広げて建てたようで、ちょっと窮屈になってしまったように感じます。
掃部山公園のある丘には明治初期、鉄道建設のために来日した外国人技師たちの官舎があり、鉄道開通後も付近一帯は鉄道用地となっていたため、この丘は「鉄道山」と呼ばれていたそうです。
井伊直弼の死から20年ほど後の1882年(明治15年)頃から、旧彦根藩の士族らが井伊直弼の記念碑建立を計画し、「鉄道山」と呼ばれていたこの丘を買収、井伊家所有とし、この丘を井伊直弼が名乗った「井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼」に因んで「掃部山」と呼ぶようになりました。その後、1914年(大正3年)に庭園部分と銅像を含めて井伊家から横浜市に寄贈され、整備の後に同年秋に掃部山公園として開園したのだそうです。
銅像のある広場から坂を下っていくと日本庭園や遊具のある広場があり、その間の道をさらに下ると住宅街に続く道に出ます。その右側にはブラフ積みの石垣を見ることができます。
ブラフ積とは、山手地区に多く見られ、30cm角、長さ80cm の石材(房州石)を縦横交互に並べ、端面が1つおきに出るように積む積み方を言います。居留外国人たちが「ブラフ」(Bluff-切りたった崖を意味)と呼んでいたことから、居留地から生まれた技術と考えられています。
こちらのブラフ積の石垣には、「石積みの角度にはより堅石の安山岩(真鶴石)を積んで強固なものとし、関東大震災にも耐え抜いた」と記されていました。平成8年度に災害予防目的で、いったん石積みを解体撤去し、コンクリートブロック擁壁により安定した構造を確保した上で、元の「ブラフ積み」を復元したようです。
掃部山公園では、井伊直弼が茶道に通じていたことにあやかって「虫の音を聞く会」が催されています。琴の音色と虫の声を聞きながら夕涼みを楽しむ茶会で、夏の恒例行事として1965年(昭和40年)から行われて、人々に親しまれています。
緑の生い茂る掃部山公園で、鳥のさえずりと水の流れる音に耳を澄まして、開港の時代に思いを馳せながら静かなひとときを楽しみました。



